魚の名前はなぜこんなに混乱しているのか|出世魚と地方名の話
回転寿司のハマチは、関東では「イナダ」です
回転寿司にハマチがあります。関東の釣り人がこれを見ると少しモヤモヤします。関東ではハマチという名前で売られているあの魚、現地では「イナダ」と呼ばれているからです。
同じ魚です。同じサイズです。なのに名前が違う。
これは混乱ではなく、日本の魚の命名文化そのものです。出世魚・地方名・標準和名という3つの概念が絡み合って、魚の名前は複雑になっています。
なぜ名前が変わるのか——価値が変わるからです
出世魚の名前が変わる理由として「縁起が良い」という説明がよくされます。江戸時代の武士が元服や出世の際に改名する慣習にならって、成長とともに名前が変わる魚を「出世魚」と呼んだ——これは文化的な背景として正しい話です。
ただそれだけが理由ではありません。より実用的な理由があります。価値が変わるから名前が変わるのです。
ブリを例にとります。ワカシ(関東で30cm以下)は脂が薄く食味がさっぱりしています。ブリになると脂がのって食味が濃厚になり、値段も跳ね上がります。「今日はワラサが獲れた」と言えば、ブリよりやや小さいサイズだと漁師・市場の人間には即座に伝わります。名前がサイズと品質のシグナルになっているわけです。
名前を変えることには実用的な意味があります。縁起物としての文化と、市場での価値づけの実用性が重なって、出世魚という慣習が根付いたと考えるのが自然です。
ブリの出世魚——関東と関西で名前が違う
ブリは日本を代表する出世魚ですが、関東と関西で呼び名が異なります。
関東 ワカシ(〜30cm)→ イナダ(30〜60cm)→ ワラサ(60〜80cm)→ ブリ(80cm〜)
関西 ツバス(〜30cm)→ ハマチ(30〜60cm)→ メジロ(60〜80cm)→ ブリ(80cm〜)
成魚の「ブリ」だけが全国共通で、それ以外の段階は地域によって呼び名が違います。さらに北陸では「フクラギ」「ガンド」という呼び名があり、全国で見ると同じ魚のはずが別の魚のように見えることがあります。
「ハマチ」が全国的に広まったのは、関西の養殖業者が養殖したブリの若魚を「ハマチ」として全国に出荷したことが大きな要因です。現在のスーパーや回転寿司で「ハマチ」として売られているものの多くは養殖もののブリの若魚で、天然のブリの若魚を関東では「イナダ」と呼んでいます。同じサイズ・同じ魚でも、天然か養殖かによって呼び名が変わるという層まで加わっています。
逆出世魚——コノシロは大きくなると価値が下がる
出世魚が「成長とともに価値が上がる」なら、逆のパターンも存在します。
コノシロがその代表例です。
コハダ(10cm以下)→ ナカズミ(10〜13cm)→ コノシロ(13cm〜)
江戸前寿司でコハダは最高級のネタです。仕事(塩・酢での処理)の難易度が高く、職人の技量が試される一品として知られています。ところが同じ魚が成長してコノシロになると、骨が多くて食べにくく、においが強くなり、食材としての評価が下がります。
大きくなるほど価値が下がる——出世魚の逆をいく「逆出世魚」です。
コノシロという名前には「この城(コノシロ)を敵に食わせろ」という戦国武将の逸話があります。敵に城を包囲された武将が、コノシロを大量に焼いて人間が焼かれているような臭いを漂わせ、城に火を放ったように偽装して脱出したという話で、それほど独特の臭いがある魚だということでもあります。
地方名が先で、標準和名が後です
出世魚の幼魚・若魚の呼び名が地域によってバラバラなのは、混乱ではなく当然のことです。
標準和名は明治以降に近代分類学が整備される中で制定されました。それ以前から各地の漁師・釣り人・市場が独自につけてきた呼び名が地方名です。地方名の方が歴史が古く、標準和名の方が後付けで整理されたものです。
出世魚の成魚の名称が標準和名として採用されることが多い理由もここにあります。成魚になった段階の名前が最も広く流通していたため、それが標準和名になりました。幼魚・若魚の呼び名は地域ごとに多様なまま残り、「名前の統一化」が行われませんでした。
「地方名は方言で、標準和名が正しい名前」という発想は逆です。地方名こそが長年使われてきた本来の名前であり、標準和名は後から作られた行政・学術上の名称です。
地方名が全国名になった例
地方名のうち、全国的に広まって「通称」として定着したものがあります。
ノドグロ(アカムツ) 標準和名はアカムツですが、山陰地方の呼び名「ノドグロ(喉が黒いことから)」が全国的な高級魚ブランドとして定着しました。「ノドグロください」と言えば全国の寿司屋で通じますが、「アカムツください」だと通じない場合があります。地方名がブランド名になった例です。
シーバス(スズキ) 標準和名はスズキですが、ルアー釣り師の間では「シーバス」という英語名が定着しています。釣り人の間では「シーバス釣り」「シーバスロッド」が標準的な表現で、「スズキ釣り」とはあまり言いません。一方、食材として話すときは「スズキ」と呼ぶことが多い。釣り文化と食文化で同じ魚の呼び名が分かれています。
チヌ(クロダイ) 標準和名はクロダイですが、関西・九州ではチヌと呼びます。フカセ釣り・ヘチ釣りの世界では「チヌ狙い」「チヌ竿」が標準的な表現として全国に広まっています。
店長の結論
魚の名前は、人間が魚と向き合ってきた歴史の積み重ねです
出世魚の名前が変わるのは縁起だけでなく、価値の変化を名前で表現してきた実用の歴史があります。地方名がバラバラなのは混乱ではなく、各地で独自に魚と向き合ってきた証拠です。標準和名は後から整理されたものです。
回転寿司のハマチを見てモヤモヤする気持ちは正しい。ただそのモヤモヤの正体は、日本の魚の名前文化の複雑さそのものです。
本記事で紹介した出世魚の呼び名・サイズ基準は地域・文献によって異なる場合があります。