なぜ日本人はサーモンを生で食べるようになったのか|寿司ネタ誕生の歴史

江戸前寿司にサーモンはありませんでした

回転寿司で断トツの人気を誇るサーモン。子どもが好きな寿司ネタを聞けば必ず上位に入り、スーパーの刺身コーナーでも常連です。

ところがこの「当たり前」の存在は、40年前には日本に存在しませんでした。

江戸前寿司の伝統的なネタにサーモンはありません。理由は単純で、日本では長らく「生のサケは食べるものではない」とされていたからです。サケには天然魚にアニサキスなどの寄生虫が寄生しており、生食すると激しい腹痛を引き起こすリスクがありました。

焼き魚・ムニエル・塩引き——サケは「火を通して食べる魚」という認識が日本では確立していました。


ノルウェーで起きた「サーモン余り」

サーモン寿司の歴史は、ノルウェーの国家的な危機から始まります。

1980年代後半、ノルウェー国内で養殖サーモンの増産が進みすぎた結果、3万5000トンもの不良在庫が生じました。供給過剰で価格が暴落し、養殖業者の半分程度が廃業する事態に追い込まれていました。

この問題を解消すべく1986〜87年、ノルウェー政府はサケの大量消費国・日本への売り込みを国家プロジェクトとして開始します。プロジェクトの名前は「プロジェクト・ジャパン」。当時のノルウェー漁業大臣トール・リストー氏が率いる代表団が来日し、日本市場に大きな可能性を見出したことが起点です。

ミッションを命じられた在日ノルウェー大使館の水産参事官ビョーン・エイリク・オルセン氏が選んだ戦略は、寿司ネタや刺し身という「生食用」として売り込むことでした。当時の日本には生のサーモンを食べる文化がまったくなかった——だからこそ、そこに可能性があると判断したのです。


築地で門前払いされた

プロジェクト・ジャパンは最初、まったく相手にされませんでした。

「生のサケは危険」という認識が日本の食文化に根付いていたため、築地市場の仲買人たちはノルウェー産サーモンの生食提案を門前払いにしました。「日本人は生のサケを食べない」「寄生虫の問題がある」——何度試食会を開いても、首を縦に振る業者が現れなかった。

ノルウェー側の主張は「完全養殖のアトランティックサーモンは管理された環境で育てているため寄生虫がいない、生食できる」というものでしたが、この安全性の主張を日本側が受け入れるまでに長い時間がかかりました。


転機は1992年、ニチレイとの提携

5年以上の交渉を経て、転機が訪れます。

1992年、日本の大手食品会社ニチレイがノルウェーと提携を結び、5000トンのサーモンを「お寿司として売る」という条件付きで採用することに合意しました。ほぼ同時期に始まった料理番組「料理の鉄人」でノルウェーサーモンが取り上げられたことも追い風になりました。

1995年ごろから、ノルウェーサーモンが本格的に日本の食卓に並ぶようになりました。

1980年当時、日本へのサーモン輸出量はわずか2トンでした。それが20年後には4万5000トン以上に拡大しています。


回転寿司が一気に普及させた

スーパーの刺身コーナーへの浸透と並行して、回転寿司チェーンの採用が普及を決定的にしました。

冷蔵・冷凍・空輸インフラの発達により安定的に輸入できるようになり、年中供給できるという安定性も評価されました。鮮やかなオレンジ色ととろけるような食感は、マグロに匹敵する視覚的なインパクトがあります。脂がのってクセが少なく、子どもでも食べやすい——回転寿司の客層にぴったりはまりました。

こうして「サーモン」という名前が定着していきます。ここで注目すべきは「シャケ」「サケ」ではなく「サーモン」という外来語表記が選ばれたことです。


「サーモン」と「サケ・シャケ」は何が違うのか

現在の日本では、魚売り場や寿司屋で「サーモン」と「サケ(シャケ)」という2つの表記が混在しています。この使い分けには一応の基準があります。

サーモン:主にノルウェーなどから輸入される養殖のアトランティックサーモン(タイセイヨウサケ)。生食・刺身・寿司向け。

サケ・シャケ:主に北太平洋で漁獲される天然の白鮭(シロサケ)。加熱調理向け。焼き鮭・ルイベ・筋子・イクラの親魚。

ただしこの区別は厳密ではなく、スーパーや飲食店によって表記が揺れています。「生食用サーモン」として販売されているものの多くはノルウェー産の養殖アトランティックサーモンですが、チリやカナダ産のものも「サーモン」として流通しています。

天然のシロサケを刺身で提供する場合は「冷凍処理(-20℃以下で24時間以上)」を経てアニサキスを死滅させてから提供するのが現在の食品衛生上の基本です。


寿司の「伝統」は意外と新しい

サーモン寿司の歴史が示すのは、「伝統」と思われているものが意外と新しいことがあるという話でもあります。

江戸前寿司の原型が確立したのは江戸時代後期。当時の寿司ネタはコハダ・エビ・タコ・アナゴ・マグロの漬けなどでした。現在「定番」とされるウニ・イクラ・サーモン・アボカドロールは、いずれも歴史が浅いネタです。

サーモンは1990年代に「外国から持ち込まれた寿司ネタ」として定着した、寿司の歴史から見れば新参者です。ノルウェーの不良在庫問題という経済的な事情から始まった売り込みが、30年で日本の食文化を変えました。


店長の結論

「当たり前」には必ず歴史があります

回転寿司で何気なく頼むサーモンの裏に、ノルウェーの国家プロジェクト・築地での門前払い・5年以上の交渉・ニチレイとの提携という歴史があります。

輸出量2トンから4万5000トンへ。この変化は、食文化は変わるということと、変えようとする力が長期間働き続ければ変わるということを示しています。

30年後の回転寿司に何が並んでいるか、想像してみると面白いかもしれません。


本記事の歴史的情報は公開資料をもとにした解説です。サーモンの安全な生食については、購入先の表示と保管方法をご確認ください。天然サケの生食には適切な冷凍処理が必要です。